河越 兼字(かわごえ かねな、1628年 - 1703年)は江戸時代の地下官人・有職家。

源兼字兼字王当兼王清原賢充中原賢充とも。ただし源兼字、兼字王、清原賢充の名前は後世の資料にしか見えない。

概要

兼字の実父は河越重忠である。重忠は松永久秀の旧臣である河越宗也(重宗)の子で、宗也は天正5年(1577年)に松永氏が滅亡した際に京都に居住し、娘が平田職忠に嫁いだため平田家で同居したという。宗也の娘と職忠の間に生まれた娘は重忠に嫁ぎ、兼字と河越賢在・真継久忠を産んだ。

『地下家伝』によれば、元来は父方の河越氏を継承していたが、舟橋相賢の養子となり、早世した河越賢在の名跡を相続した。また、伊勢使王・兼久王の名跡も継ぎ、兵庫寮と使王の両方を務めた。寛永20年(1642年)9月20日には正六位上・兵庫大允に叙任され、正保4年(1647年)には名前を源兼字に変更した。明暦元年(1656年)12月15日には兵庫助に転じた。万治3年(1660年)12月24日には従五位下に叙され、兵庫頭に転じた。貞享4年(1687年)8月14日には従五位上に叙された。

ただし、青木庸行の『百年以来近代地下諸家伝』では河越賢兼までは中原氏を名乗っていたとされており、実際に史料上では中原朝臣と呼ばれていることから、『地下家伝』の記述には錯誤があると考えられる。

なお、「兼字王」の作名は小野隆房や小野職行も名乗っている。

脚注

注釈

出典


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